2.「小田急ロマンスカー」小史
小田急電鉄は関東地方大手私鉄で比較的新しい鉄道の部類に入り、鉄道開業は1927年(昭和2年)の小田原急行電鉄として小田原線新宿〜小田原間開業が最初である。半年後には小田原線全線複線化、2年後には江ノ島線が開業して現在の路線の骨格が揃う。ここでは小田急電鉄の特急列車に関連ある歴史に絞って記していきたい。
小田原線の当初の目的は東京都心と郊外を結ぶ通勤用新線としての意味合いが強かったが、路線が新宿から伊豆・箱根の入り口となる小田原へ直接結ぶかたちとなるため、当然観光輸送も意識するようになる。まず小田原線全線複線化の1927年10月から新宿〜小田原間に急行電車の運行を開始する。
週末には箱根方面への観光客の利用者の便を考え、1935年(昭和10年)6月に新宿〜小田原間無停車の特急列車の運行を開始した。当時は週末のみ運転で列車名も「週末温泉特急」を名乗っており、車両は一般車にシートカバーを付けるなど特別整備をしたものであったという。これが現在の小田急ロマンスカーのルーツである。
しかし、戦前の小田原急行電鉄は業績が芳しくなかった。沿線の開発が進んでおらず中間利用客が多くなかった上に、東京と結んでいる終端都市が小田原という小さな街で直通客も伊豆や箱根への温泉客に依存するしかなかったのである。レジャーもあまり一般的で無かったところに世界的な金融恐慌の時代で景気も悪く、週末温泉特急も歌謡曲の歌詞に採用してもらうなどの宣伝にも関わらず業績は悪かった。小田原急行電鉄には設備投資ができない時代が続き、景気が持ち直して業績が上がったところに待っていたものは戦争であった。
1940年(昭和15年)に交通事業再編のあおりで系列会社である帝都電鉄(現在の京王井の頭線)を合併、翌年には電力事業再編のあおりで親会社の電力会社が配電業務から撤退して鉄道業に専念するため、小田原急行電鉄を合併して社名を「小田急電鉄」と改めた。さらに小田急電鉄の事業主が中国大陸での鉱山事業に失敗、鉄道事業を東京急行電鉄社長に完全譲渡することとなった。こうして小田急電鉄も東急電鉄の一路線として組み込まれ、戦争の時代に進んで行くのである。そして戦局の悪化と共に「週末温泉特急」の運転は取りやめとなってしまった(多くの書物に小田急電鉄の東急電鉄への合併は交通再編に絡む東急の乗っ取りという説が書かれているが、当時東急に組み込まれた他の私鉄はともかく小田急の場合はここに記したように少し事情が違うのが正しい)。
戦時中の小田原線は国鉄東海道本線のバイパス路線として整備され、反して江ノ島線は不急路線として単線化の憂き目を見ていた。終戦を迎えると当時同じ会社だった井の頭線の被害が激しく、車両の貸し出しを行った。同じ頃に国鉄に買収されたばかりで国鉄とは線路の規格が違っていた南武線とも車両の貸し借りを行っている。
終戦後の財閥解体の流れに従って東急電鉄も解体されることとなり、1948年(昭和23年)6月に小田急電鉄・京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)・京浜急行電鉄が分離独立した。本来ならば現在の京王井の頭線は小田急電鉄となるべきだと思われたが、相模原線など無かった時代に京王線だけでの経営は問題があるとされたために旧帝都電鉄が京王に加わって「京王帝都電鉄」となったのである。この分離・再編に小田急ロマンスカーの歴史は無関係ではない、帝都電鉄を取られた代わりに戦時中に東急電鉄の傘下に入っていた箱根登山鉄道を系列企業として加えることとなった。箱根登山鉄道は小田原急行時代からどうしても傘下に加えたかったが、親会社同士がライバル関係にあったため実現できなかった。戦前に電力部門を失ってライバル関係は解消していたものの傘下に加えるのは容易ではなかった。しかし、戦時中の東急合併のお陰で箱根登山鉄道は小田急電鉄の仲間となったのだ、箱根登山鉄道を傘下に入れたと言うことは箱根登山鉄道が所有するバス路線など箱根一帯の交通網を手中に入れたのと同じである。
独立した新生小田急電鉄は分離から僅か4ヶ月の10月に新宿〜小田原間に特急運転を再開した。翌年にはクロスシートの新型車が登場し、戦後の復興に邁進を始める。しかし、この時期の特急運転開始は米進駐軍の影響も大きいと思われる。箱根という国際的観光地を米軍が見逃すわけはないからだ。
翌年には日当紅茶が紅茶の宣伝も兼ねて小田急の特急列車に乗り込む、車内の一角を陣取り「走る喫茶室」と名付けられた茶菓子類のシートサービスを開始した。高度経済成長期に特急が増発されると、この「走る喫茶室」に森永が加わる。女性のウェイトレスが列車に乗り込み、茶菓子類のシートサービスをする光景は小田急の特急列車の風物詩となって行く。
特急列車の運行再開と同時に系列会社となった箱根登山鉄道への乗り入れ準備が始まった。箱根登山鉄道はその名の通り急勾配でもって箱根山を登る鉄道で特殊装備の電車でないと走行は無理であるが、箱根最大の温泉街である湯本までは勾配もカーブも緩く、改良によって小田急電鉄の車両でも走れると判断された。さらに小田急と箱根登山鉄道で架線電圧やレールの軌間も違う。そこで架線電圧は箱根登山鉄道の電車を両対応にすることで、軌間の違いは3線路軌道とする事で解決した。
1950年(昭和25年)8月、いよいよ箱根登山鉄道の箱根湯本への乗り入れが始まった。新宿を出発した特急電車が直接箱根最大の温泉街に乗り入れるようになったのである。この効果は大きく、この頃から箱根への行楽客輸送シェアが小田急電鉄に傾き始める。
箱根湯本乗り入れが具体化してきた頃から小田急電鉄では本格的な特急専用車両の製造が検討され始めた。他の私鉄でも同じような動きがあり、一部では走り始めて好評を博していた時期でもあるのだ。小田急電鉄では1951年(昭和26年)2月に1700系として登場することになる。3両編成で両先頭車は運転室と客室とデッキという普通の特急電車の配置だが中間車は画期的なもので、車端部にはトイレと洗面所、車両中央には本格的な喫茶カウンターを設けて「走る喫茶室」サービスを強化することとなったのである。この中間車には非常用扉のみで乗降扉はなく、定員増とサービス施設の設置場所の確保という相反する問題をクリアした。
現在の「ロマンスカー」の骨格はここで誕生したといっていいだろう、「ロマンスカー」と呼称するようになったのもこの車両からである。これは当時、転換シートが「ロマンスシート」とも呼ばれており、その転換シートだけで車内が構成されているところからきたものであるとされている。「ロマンスカー」の名称を最初に使ったのは諸説あるが、日本の鉄道では京阪電鉄のようだ(その京阪特急は「ロマンスカー」の名を捨て「テレビカー」で売っている)。
この特急車は好評で、当初2編成作られたが翌年に1編成が追加された。この増備車は前面スタイルを大きな2枚ガラスとし、当時の特急車らしい外観が揃ったと言えよう。
1700系が軌道に乗った頃から、軽量車体に最新技術の電機部品を組み合わせたいわゆる「高性能電車」の導入が検討されるようになる。揺れや騒音が少なく快適で、さらに速度を向上させるのが狙いで、乗り心地の向上は鉄道移動の快適性を上げて路線網を伸ばすバスや将来の自動車交通と対峙するのに不可欠なものであったし、速度の向上は移動時間の短縮により鉄道の競争力を上げるのみでなく、車両の回転率を上げて少ない車両で輸送力向上が実現できるため、輸送力に対する保有資産率を下げて効率的な鉄道経営を行うのに不可欠であった。そしてその騒音や揺れを低減し、高速化を実現するためには車体を軽くすることは避けて通れないものであった。
国鉄だけではなく多くの大手私鉄がこのような車両の開発に乗り出した。小田急も例外ではなく特急車と通勤車の双方においてこの全く新しい電車の開発に乗り出すこととなる。この研究開発の成果としてまず誕生したのが通勤電車の新型である2200系である。2200系は正面2枚窓のデザインもさることながら、平滑な側面車体、そしてカルダン式駆動などの最新技術をふんだんに使用した静かで滑るような走りはあっという間に好評を得た。2200系は年々増備が続けられ、途中から電照式の行き先表示器も取り付けられて行き先看板は姿を消した。この高性能車によって各駅停車や急行電車もスピードアップしたため比較的長距離を乗る客に好評で、ついにセミクロスシートでトイレ完備という2320系という車両までも生み出す。2320系のトイレはそれまで鉄道トイレとして標準だった垂れ流しをやめ、始めてタンクに汚物を貯留する方式をとった。
このような高性能車が一般車で好評なのだから、次は特急専用車にこの車両を投入するのは当然の流れといえる。しかし小田急電鉄では特急車両についてはさらに上を目指していた。特急車両に特化し将来の格下げ転用を考えないという明確な方針を打ち出し、超軽量車体と高速走行にセットした機器類で日本最速の電車を作ろうと、国鉄の指導を仰ぎながら一丸となって車両を設計していた。
しかし、特急利用客数は延びる一方で遂に1700系3編成では対応しきれなくなっていた。そこで2200系を基本に車体を1扉に、車内にリクライニングシートを並べた高性能特急電車を取り急ぎ1編成作って繋ぐこととした。1955年(昭和30年)に2300系として4両編成で登場、転換シートがリクライニングシートになった以外は1700系と同一のサービス内容となっている。小田急電鉄ではこの車両を新型で高速の特急電車が完成して必要本数が揃うまでのピンチヒッターと割り切っていたようだ。その間も高速特急電車の開発は進んでいた。
1957年(昭和32年)5月、その高速特急電車は3000系という形式名と「SE(Super
Express)車」という車両愛称を与えられて完成した。飛行機を思わせる流線型の前面、モノコックボディで丸みを帯びた車体、小窓が並ぶ側面、車体補強のコルゲート、そしてグレーとバーミリオンのツートンカラーの境界を白い帯で締めたカラーリング、その美しい姿は人々をあっと言わせた。
6月下旬の展示会を経て、7月に2編成が営業運転にはいると連日満員の盛況となった。今までの鉄道車両になかった外観と塗装により、「SE車」はあっという間に大人気となったのだ。
8月に3編成目(車番では第2編成)が小田急電鉄に入線した。この車両は試運転を繰り返して営業運転には入らずにいた。そう、「SE車」の実力を試すべく高速性能試験が待っていたのである。まずは小田急線内で高速走行試験が繰り返されて127km/hを記録した。今となっては130km/h以上で営業運転する在来線特急もあるからこの速度記録がどれだけ凄いか分かりにくいが、この時代の特急の最高速度は国鉄私鉄問わず90km/h代であったことを考えると、当時のレベルで見ればどれだけ凄かったか分かるだろう。しかもこの127km/hという数値は小田急電鉄線内最長の直線区間で出せる限界速度、つまり線形で決まったものであって車両の性能にはまだ余裕があることも認められた。
9月に入るとこの編成は国鉄の工場に運び込まれ、数々の計測装置が取り付けられた。国鉄と小田急電鉄の取り交わしにより国鉄線内での高速試験を行い、国鉄側もデータを取って将来の電車開発の基礎データとすることであった。
9月20日から東海道本線大船〜沼津間で高速試験が始まり、100km/hから10km/hずつ速度を上げていった。9月24日には130km/hを達成し、翌日には143km/hまで速度を上げて技術者達をあっと言わせた。そして9月27日、東海道本線函南〜沼津間で行われた試験走行で145km/hを記録、当時の狭軌世界最高記録を樹立して試験は終了した。ここで得られた数々のデータは国鉄に持ち帰られ、その後のモハ20系「こだま型」や新幹線電車開発の基礎データとなる。「SE車」はこれらの車両の母でもあるのだ。さらに私鉄各社をも刺激し、各社に軽量車体の特急電車が登場することになる。
これらの実績から「鉄道友の会」では毎年優れた車両に贈られている「ブルーリボン賞」を創設し、その第1号として「SE車」に授与した。
「SE車」が箱根特急に投入されると、新型高速特急電車の話題性にレジャーブームが重なって特急は連日満員となった。箱根のみでなく夏は海水浴特急として江ノ島線にも入り、まさに引っ張りだこという状況であった。小田急特急といえば高速性能を誇るロマンスカーという方程式が出来上がったのはこの時代である。高速だから粗末と言うわけでもなく、「走る喫茶室」を中心とする質の高いサービスも「SE車」では受け継がれている。
特急利用客が増えると共に「SE車」は増備され、1959年(昭和34年)に「SE車」4編成体制となると、瞬時に旧式となってしまった1700系や2300系という先代の特急車両は特急運用から降板して一般車両に格下げ改造された。特急はすべて「SE車」に統一されて効率的に車両を回転した。しかし、箱根や江ノ島への観光客の増加は留まるところを知らず、「SE車」の増結が必至となってくる。
ここで検討されたのは既存の「SE車」の編成を伸ばすか、思い切って新車を作って特急そのものを増やすか等の案が検討された。最終的には新車を増備という方向に落ち着くのだが、それも「SE車」をそのまま増備するのでなく、新たな発想による新型車とすることにした。
新型車は「SE車」の8連接から11連接に伸ばして定員増を図ること、「SE車」と同じく軽量車体と高速性能の車両とすること、そしてデラックスムードを漂わせてその車両を見た人を強烈に「乗りたい」と思わせる車両であることが条件となった。特に見た人の乗車欲をかき立てる車両という点は様々の案が考えられた。この新型特急は東京オリンピックに間に合わせるべく計画が進んだ。
1963年(昭和38年)、「SE車」に似た流線型の車体が美しい新型特急車が小田急電鉄に搬入された。しかしよく見れば運転席は2階に上げられ、先頭部の客室は「展望席」として180度の景色が楽しめる構造となっていた。さらに独特のライトケース、五角形の愛称電照表示などが今までの「SE車」とは違うデザイン上の遊び心を演出。車内に目をやれば自動扉で3つの車内に分割され、徹底的に高級感を追求したカラーリングの内装が大きな窓越しに見えるという、まさに誰もが「乗ってみたい」と思う車両に仕上がった。
この車両は新しい「SE車」という意味で「NSE(New Super Express)車」と呼ばれる事となる3100系である。以降36年に渡って小田急電鉄に「ロマンスカー」として君臨することになる。営業に入ると大好評で、休日ともなると展望席は予約受付初日に売り切れ、「箱根への旅は展望席のついたロマンスカーで」という常識が出来上がる。
小田急電鉄は1955年(昭和30年)から国鉄御殿場線にキハ5000型という気動車で乗り入れ、新宿から御殿場というルートによって箱根へ北側から入るルートの確保と、富士山麓から東京へ直行するルートの開発を行っていた。こちらも盛況であり、1968年(昭和43年)の御殿場線電化開業後も乗り入れは続けられることとなった。
御殿場線直通列車用電車の確保をどうするか検討した結果、「NSE車」の投入で比較的運用に余裕を生じている「SE車」を投入することとした。しかし8連接車体では輸送力が過剰となるため5連接車体に組み替えること、2編成連結して運転できるようにすること、走行性能を御殿場線の急勾配区間に対応したものとする等の改造が行われることとなった。
この改造は中間車を先頭車に改造するなど新車を作るのと同じくらいの労力を必要とされるものもあり、また編成をバラしてまた組み直すという作業も加わるため車両の経歴を複雑にした。また先頭部はそれまでは連結器が非常用収納式だったのでこのままでは連結運転はできない、そこで先頭部の台枠に補強が入って連結器が取り付けられた、そのため流線型に太い梁が露出するデザインとなって流麗な流線型デザインは姿を消した。中央には連結器を隠すカプラーカバーがどっしりと鎮座し、同時に中央にふたつ並んでいたヘッドライトは左右に離され、ヘッドライトがあった位置に「NSE車」と同じ五角形の愛称電照表示が付けられた。さらに高速セッティングだった性能は歯車比を落として山岳向けとなり、記録にも記憶にも残る俊足は過去の物となった。
こうして改造された3000系「SE車」は「SSE(Short Super Express)車」とも呼ばれ、御殿場線直通列車「あさぎり」と、箱根特急を補完する途中駅停車形の特急列車に活躍の場を移す。「NSE車」という女王の陰で小田急の特急運転を支えたのだ。
時は流れ、1970年代後半ともなるとふたつの問題が浮上してきた。ひとつは「SE車」の老朽化、もうひとつは途中駅停車形の特急の旅客数の増加である。途中駅停車形の特急は5連接の「SE車」で運行されていたのが、これで対応しきれなくなってきたのだ。
そこで「NSE車」増備に迫られるのだが、設計から20年近い日々が流れている「NSE車」をそのまま作るわけにも行かない、作るなら「NSE車」をベースにこの時代に合ったものに作り直すべきだという方向でまとまった。
こうして1981年(昭和56年)に登場したのが7000系「LSE(Luxury Super
Express)車」である。「NSE車」とそっくりであるが、同じなのは車体の塗り分けだけで他は全く新しいものであった。先頭部は突起を無くして平滑を中心とした形状に変わり、愛称電照表示は長方形で幕式となった。車内もリクライニングシートを装備し、オレンジ色を基調とした明るい車内を売り物とした。
「LSE車」の登場で「SE車」が2編成廃車となって、うち1編成は大井川鉄道に売却された(これも短期間の活躍で引退となる)。この頃「LSE車」で御殿場線直通列車を置き換える構想もあったようだが、諸般の事情で流れたため結果的に「あさぎり」で活躍していた「SE車」は生き残ることとなる。
1980年代も半ばとなると「LSE車」が4編成揃ったこともあって、「SE車」「NSE車」の陳腐化が目立ってきた。どちらも昭和30年代の基本設計のまま使用しており、新型車の登場で見劣りすることは避けられなかったのである。時を同じくして各部の老朽化も進んでおり、御殿場線直通列車の先行きも不透明なことから、この2形式については更新工事が行われることとなった。
内装の交換や主要機器の取り替えを中心に幅広く工事が行われ、内装についてはどちらも「LSE車」の雰囲気に合わせることとした。「SE車」では窓の固定化が、「NSE車」では愛称電照表示が五角形の看板から「LSE車」と同じ幕式に代わり、どちらも外装まで変化する大工事となった。「NSE車」では喫茶コーナーの拡張に伴い大規模な車体工事を伴うので、車両メーカーに回送しての工事となった。
1980年代後半、さらなる特急の輸送力向上を狙って特急車両の増備が計画された。これにより一部「SE車」で運行されていた江ノ島線特急の11連接車化と、箱根特急の増発を狙うものであった。また小田急電鉄創立60周年の時期に現車が落成することとなったため、その増備車は「LSE車」ではなく新たな付加価値を付けた新型車にしようと決まった。
そうして登場したのが10000系「HiSE(High-decker/High-grade/High-level Super Express)車」である。その外見はあっと言わせるものであった。先頭部分は「LSE車」と大きく違わないが、側面に目をやると連続窓が普通の車両より高い場所に設置されていて眺望が良さそうなのが一目瞭然であった。また塗装はそれまでのバーミリオンを基調とした塗色をやめ、白い車体に赤を基本とした塗装に変わった。
その外見の通り、展望室以外の客室の床が嵩上げされたハイデッカータイプの車両として登場した。ハイデッキとなって床が上がった分、床下に冷房装置などの重い機器類を搭載することとなったため、その背の高そうな外見とは裏腹に「LSE車」よりも低い位置に重心を置くことができたのではないかと思われる。「HiSE」は登場と同時に箱根特急に投入され、そのハイデッキに設置された大きな窓からの眺めが好評を呼び、展望席でなくても眺望が得られるためたちまち人気の的となった。
国鉄が分割民営して御殿場線がJR東海の所属となると、ようやく御殿場線直通列車の車両置き換えの話が前進し始めた。当時のJR東海としては静岡県東部から都心へ東海道新幹線以外のルート開拓を模索していた、まだ「のぞみ」が運行されていない当時の東海道新幹線はパンク寸前であり、沼津や三島からの客をできる限り別ルートから、かつJR東海主導で送り出したいという気持ちがあったのではないかと考えられる。
また小田急としても御殿場経由で箱根に入るルートとしてでなく、富士山麓や西伊豆への観光ルート開拓という意味で「あさぎり」のテコ入れが必要だった。ここに両社の思惑は一致し、小田急〜御殿場線直通列車「あさぎり」を共同運行として、両社で規格と扱いを統一した車両を交互に運行することとなった。
こうして1991年に登場したのが20000系「RSE(Resort Super Express)車」である。JR東海と取り決めた統一規格により、一般的なボギー車7両編成で中間2両が二階建てのグリーン車(階下は普通車)となり、先頭部は展望席を取りやめて普通の流線型車体となった。他は「HiSE車」に準じており、オールハイデッキ構造の一般客室と大きな側面窓の組み合わせであった。塗装は今までの小田急特急にないパステルカラーとなり、水色とピンクを基調とした派手なカラーリングであった。
同時にJR東海はほぼ同じ内容の371系電車を製造した。両者は1991年(平成3年)3月にそれまで「SE車」で運行されていた「あさぎり」としてデビュー、運転区間を御殿場から沼津に伸ばして運行を開始した。
いっぽう、「SE車」は全車引退してしばらくは車両基地に予備車として保管されていたが、1992年(平成4年)3月8日に新宿〜唐木田間で招待客を乗せて「さよなら走行会」を行った、この時の走行を最後に残っていた4編成全車が廃車となり、うち1編成が解体を免れて片方の先頭車と2両目を外観のみ登場当時の姿に復元した。その上で海老名車両基地に作られた専用車庫に静態保存されることとなった。。
この時代から「小田急ロマンスカー」のサービスレベルが下がることになる。「あさぎり」がJR東海との共同運行の関係で「走る喫茶室」を取りやめて他の会社の特急と変わらない平凡なワゴンによる車内販売に切り替わってしまった。また日当紅茶と森永が相次いで「走る喫茶室」から撤退したため「走る喫茶室」は廃止となってワゴンサービスに切り替えられ、時間帯によってはワゴンサービスすらない特急まで現れ、サービスについては平凡な特急となってしまった。
1990年代半ばにさしかかると「NSE車」の置き換えの必要に迫られた。11連接は通常車両7両分の長さでしかなく、ラッシュ時を中心に途中停車形特急では限界に達しようとしている背景も見逃せないものであった。従って「NSE車」の置き換えは定員を大幅に増やす事が前提となった。また過密化する通勤列車ダイヤに対応するため江ノ島特急と小田原線の途中停車形特急とは分岐点の相模大野駅まで連結して走らせる事となり、新型特急は編成を分割できるものということになった。こうして決まったのは通常のボギー車10両編成で6両と4両に分割可能な編成と、途中停車形特急を中心として運用するためにビジネスライクなインテリア・エクステリアの車両とすることであった(=と理解せざるを得ない)。
こうして1997年(平成9年)に生まれたのが30000系「EXE(Excellent Express)」である。車両愛称は始めて「SE」がつかないものとなりそれまでの「ロマンスカー」とは一線を画するものであるのは明白である。落ち着いた黄金色一色に塗ったくった車体は観光列車に必要な派手さでなく日々利用する人々に落ち着きとやすらぎを与える塗装であり、内装も飾りっ気のない落ち着いた色合いでターゲットがあくまでも日々利用する人々なのは明白であった。観光特急という華やかさを思い切って削りつつも落ち着いたデザインでまとめて決して「安かろう・悪かろう」的なクルマにしなかった点に、小田急電鉄の特急車に対するこだわりというものが見えてきた。車内サービスは相変わらずワゴンサービスだが、ワゴンサービスが乗らない便に備えて自動販売機を載せているあたり、日々の利用客への配慮は忘れていないと見るべきだろう。
しかし眺望のきかない窓と前面展望の利かない先頭車は、「ロマンスカー」=眺めがいい電車と思って間違って乗ってしまった観光客の評判は良くない。この「思い切った車両」は逆に、次に観光向けでどんな「ロマンスカー」を出すのか期待させるものでもあったと思う。
「EXE」の増備と並行して相次ぐ新型特急の登場で陳腐化が加速した「LSE車」の更新工事が行われた、内外装ともに「HiSE車」並のものとするのが目的で、同時に機器類の更新も行われた。
さらに「EXE」の増備に伴って「NSE」車の引退が進む。1997年に引退した「NSE車」のうち1編成は創立70周年事業の一環として展望席をロビーに改造、外装を特別塗装とした団体臨時用電車「ゆめ70」に改造して団体列車の他、運用を限定して定期列車にも運用された。
1999年(平成11年)7月、「EXE」増備によって最後の「NSE車」一般編成が引退、最後の1編成は車体各部に引退を記念するマーキングが描かれ、花道を盛り上げた。その後1編成が小田急電鉄で稼働状態保存されたが、後に中間車を一部切り離すなどされて完全な静態保存に切り替えられている。またそれとは別に先頭車1両が開成駅前の専用テント内に保存された。
「ゆめ70」に改造された「NSE車」も2000年4月に引退、解体された。
この頃から次の観光特急を主用途とした新型特急の構想が持ち上がっていた。「EXE」の評判が観光客からは良くなかった事も考慮に入れられ、また小田急電鉄自体が一部複々線の完成などにより再び速度向上の望みが見えてきた事もあってか、最新技術の導入によってスピードアップに備えるという現代版の「SE車」として設計が進んでいる事がかなり早くから漏れ聞こえてはいた。
その現代版「SE車」とも言うべき新しいロマンスカーがベールを脱いだのは2005年春、「VSE(Vault Super Express)車」という車両名称を引っ提げた彼女の姿は、久々に復活した展望席と連接車というこれぞ「SE車」の血を引く特急車という出で立ちであった。10連接の車両限界一杯の大きな車体は純白に塗られ、アクセントラインは「SE車」に受け継がれてきたバーミリオンの細い帯塗装とされた。車内に目をやると巨大な窓と僅かに窓向きにセットされた座席が過ぎらしい眺望を約束し、高い天井は開放感ある広々とした客室を作り出した。サービス面でも「ロマンスカーカフェ」という名で「走る喫茶室」が事実上の復活を果たし、全ての面に於いてかつての「ロマンスカー」が復活した内容となった。
「VSE車」の登場で就役から僅か15年余りの「HiSE車」が、それより古い「LSE車」より先の引退となった。「HiSE車」はオールハイデッキという構造が仇となった。現在の世の中は「バリアフリー」が叫ばれており、車椅子利用者などがこのハイデッキ車両に乗れないという問題が生じたのである。構造上対応工事が難しい「HiSE車」のうち2編成が「VSE」に道を譲って引退となったのである。「HiSE車」のうち残った車両も予備となってしまったという(同じ理由で「RSE車」についても近々何らかの発表があると思う)。
引退した「HiSE車」はまだ車両としての寿命が残っていることもあって、小田急電鉄の鉄路を去って長野電鉄へ運ばれた。11連接の車体は4連接と短くされ、長野と志賀高原を結ぶ特急として第二の人生を歩むことになっている。
さらに「小田急ロマンスカー」には新しい歴史が待っている。これまでは都会から箱根へ、江ノ島へ、西伊豆へ、そして多摩ニュータウンへと路線網を拡げてきた「小田急ロマンスカー」は逆に都心方向への路線網を拡げる。小田急電鉄が相互乗り入れを行っている地下鉄千代田線にロマンスカーを走らせようというのだ。このロマンスカーの運行には地下鉄の車両限界に合わせて車体幅の狭いロマンスカーが必要となるが、既にこの地下鉄乗り入れロマンスカーとして専用車である60000系「MSE(Multi
Super Express)車」の完成予想図が公表された。水色の車体の新しいロマンスカーは東京の官庁街から郊外のベッドタウンをダイレクトに結ぶ予定である。
それだけではなく、未来のロマンスカーの形がどう変化するのか、まだまだ楽しみで目が離せない。ここまでが「小田急ロマンスカー」小史である。
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