「あにめの記憶」過去作品・7

「機動戦士ガンダム」(劇場版)

・日本アニメ史上に残る伝説の作品
 アニメの醍醐味の一つはSFであることは、このサイトで2番目に取り上げた「宇宙戦艦ヤマト」の時に語らせて頂いた。「宇宙戦艦ヤマト」はこれまでの「ヒーローもの」のSFアニメとは決別し、説得力を持った設定において「悪玉異星人の一方的な侵略」ではなく「戦場」を舞台としたリアル路線へとSFアニメの幅を広げていったのもその際に紹介したところだ。
 だが「宇宙戦艦ヤマト」はその後の主力とはなり得なかった。主役メカが「戦艦大和」という渋い題材であり、かつ登場人物に決定的なヒーローがいなかったところから小さな子供から理解を得られなかったのは確かだろう。「ヤマト」はアニメを見る世代の拡大には寄与したが、どんな世代でも楽しめるという点においては不足だったと思われる。そして劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト」で主要登場人物が全て死ぬというストーリーを展開したかと思えば、ほぼ同内容のテレビアニメ版「ヤマト2」では全員生還するなど物語を根底から覆すような設定の差が生じ、物語自体にブレが生じた上に一部視聴者に背を向けられたのも事実だろう。さらにヤマトはテレビスペシャル「新たなる旅立ち」・劇場版「ヤマトよ永遠に」・テレビ版「ヤマト3」と進むにつれて不自然な設定や主役艦「ヤマト」を完全無欠にしてしまうなどリアル路線から外れて行き、劇場版「完結編」では死んだはずの人間が生き返るという禁じ手まで使ってしまい、リアルさを追求した視聴者からは完全に見放される(私がその一人で「ヤマト」は好きだが「さらば」以降の「ヤマト」は基本的に認めていない)。
 一方、「ヤマト」の成功の裏で次なるSFアニメの方向性を模索していた人たちがいたのも事実だ。「ヤマト」になかったもの…それはSFアニメを象徴する巨大ロボットの活躍である。この頃のSFアニメの主力はロボットアニメであり、主人公が操縦する航空機タイプのメカが他の機またはロボットのパーツと合体することで巨大なロボットに変形し、敵として現れる巨大な怪獣や敵メカと戦うという展開である。合体や変形というギミックは物語の設定をリアルにするものではなく、アニメ番組のスポンサーである玩具メーカーが子供達が飽きずに遊べるヒーローの玩具を販売するための道具であった。従ってロボットアニメそのものが玩具メーカーの商品開発と宣伝の道具ではあったが、当時の子供達はそんな大人たちの事情も知らずに巨大ロボット達の活躍に夢中になっていたのも事実だ。だからこそこれらのロボットヒーローの玩具は売れたのだし、それらのアニメでも語りぐさになるような作品も数多く生まれたのだ。そのロボットヒーローアニメという舞台で、「ヤマト」のようなリアル路線を取り入れようと取り組み、それが「機動戦士ガンダム」という形で世に出たのが今からちょうど30年前、1979年である。

 無論制作陣もリアル路線を取ると決めたときはロボットアニメにするつもりはなかったようだ。これは乗り物学的な見地から見れば当然で、乗り物が移動するのに最も優れているのは「宙(または水)に浮いて推進力で移動する」こと、2に「車輪を使い車輪の回転力による」ことであって、人間型の2本の足で動くというのは大変非効率であり速度も出せない。また人間型という形状は重心が高くてバランスが悪く、これを制御するにはどうしても高度な制御が必要になる。現実世界でも人間と同サイズの人間型ロボットを自由自在に動かせるとまでは行っていない事実を考えれば、俊敏な移動や確実な行動性を求められる兵器に「人間型」というのは最も向いていないのは明らかだ。だが前述したようにロボットアニメというものの実態はスポンサーである玩具メーカーの商品開発と宣伝の場であり、アニメ制作会社が「リアル戦場もののアニメを作りたいからロボット無しで行きたい」といっても無理な話なのである。
 そこで制作者側の思案は「どのような設定にすれば兵器として巨大ロボットが存在する理由に説得力を持たせられるか」という方向へ行ったと思われ、その結果取られた設定は「科学技術が進みすぎ、レーダーなどの電子兵器が無効化されてしまったので、戦場では接近戦を余儀なくされた」というものであった。接近戦のために兵士は頑強な装甲服を着ることになるのだが、これを拡大解釈して巨大ロボットにしてしまうことで巨大ロボットが戦場で主力兵器となる事に説得力を持たせた。これがガンダム世界における「モビルスーツ」である。
 次の問題は「なぜ主役メカが合体や変形をする必要性があるのか」という点だ。主役ロボットの合体変形も玩具メーカーに言わせれば無くてはならないもので、このようなギミックがあるからこそ子供達が「欲しい」と思うのはもちろん、子供達の遊び方の幅も広がるのだ。だが兵器や乗り物として考えると「合体変形」というのも効率が悪く、数を運べばいい旅客輸送機器や貨物輸送機器ならともかく(現実に鉄道や一部の自動車は「連結」という形で合体している)、装備や火力などが問題となるある兵器にとっては2つのメカが合体したからといって1つの強力メカにることはあり得ない。2つのメカが合体したところで、合体前のメカと同じ強さの1つのメカになるだけ(ただし巨大化はできる)で意味はないものなのだ。そこで主役メカに緊急脱出用の航空機が組み込まれているという設定にした。この航空機に偵察や先兵的な攻撃をさせ、その後合体してロボットに変形して本格的な戦いをするという使い方を想定したのだろう。だが実際には劇中での合体シーンは殆ど無く(劇場版では皆無)、テレビ版のオープニングや物語冒頭のイメージシーンでしつこく流されたから記憶に残った人の方が多いだろう。後に主役メカと合体して格納・運搬する大型戦闘機がテレビアニメ版でのみ設定されるが、リアルな舞台ではこれも有効活用されないままいつの間にか単なる戦闘機として使われることになってしまう。
 そして「主役メカだけがなぜ強いのか?」。これまでのロボットアニメでは主役メカが敵に対して特別強いというのは「おやくそく」で理由など必要なかった。多くの物語で主人公が属している団体(主に研究施設)が特別な材質を開発したとか、主人公が宇宙から来たため主役メカも異星人の技術によるなどの不自然な設定がされているものもあったが、基本的には「正義の味方は強くて当然」という暗黙の了解だけで物語を展開していた。ところが今作品ではそのような設定は許されず、実際の戦場であり得る状況として自然な設定にしなければならない。その解決法としてまず敵の最新兵器が大量に量産されているという設定、その上で主役側陣営がメカの開発に遅れを取ったという設定を採用した。メカの開発に遅れを取った陣営が後発の強みを生かし、敵対勢力のメカの問題点を改善し、結果的に敵を上回るメカの開発に成功したという例は実際にもある。さらに主人公が乗るメカは「試作機」という設定とし、試作機で数が少ないからこそ予算を度外視して最先端技術を惜しみなく採用して強力機となったという事にしたのだ。また「試作機」という設定は主役メカだけは他に同型機がいないという展開にも説得力を持たせることに成功した。
 最後は主役メカにせいぜい中学生から高校生程度の子供が乗り込む設定である。どんなカッコイイロボットをリアルな設定で描いたにしろ、乗っているのが大人の軍人では見ている子供達は感情移入できない。自分達が近い将来に達する立場である「10代前半〜半ば」という主人公がメカを操るからこそ、子供達はメカだけでなく乗っている主人公も応援できるのだ。この設定もよく考えられ、最新鋭戦艦が敵の奇襲を受けて正規軍人が壊滅状態になり、さらにその戦艦で民間人が避難しなければならないという状況を作った。その過程で使えそうな人間は年齢を問わずに現地徴用されるという展開と、軍の組織が戦争で疲弊しきっていてなし崩し的に現地徴用兵が正規軍人になってしまう展開を取った。さらに主人公は機械やコンピュータが友達という暗い少年にして、その少年の目の前で主役メカを動かそうとした本来の軍人が銃弾に倒れ、少年がメカのマニュアルとメカそのものを手に入れる展開に説得力を持たせた。

 当時のロボットアニメのセオリーを守りつつ、リアル路線を展開しようとするだけでこれだけの事を考えなければならなかったのであり、ここまで問題が解決しないことにはもっと根本的な設定を与えることは出来なかったと思われる。それが基本的な設定、つまり「時代や歴史背景」である。
 時代設定は近未来、人間達は地球近辺の宇宙に本格的に進出し、スペースコロニーを作って宇宙に移民を初めて半世紀が過ぎた時代とした。この流れの中で地球残存勢力とスペースコロニー勢力が対立し、全面戦争に広がるという設定は当時の子供達だけでなく、大人までの幅広い層を熱中させるのに十分な設定だっただろう。こうしてさらに物語では語られない部分の戦争史をも設定に内包し、こうして今日まであらゆるところで語られている「ガンダムシリーズ」の世界観が出来上がったのだ。この世界観は当然、「Zガンダム」以降の続編でも踏襲されている。
 そして登場人物も多くは軍人とした。主役側陣営にも敵側陣営にも戦うための正義を持たせ、特にこの物語ではどんな勢力に関係なく登場人物それぞれが「信念」を持っていることが特筆される。それ故に起きる味方同士でのいがみ合い…主役側陣営には軍上層部の無理解だけでなく疲弊や腐敗が描かれ、敵側陣営においては仲間同士での縄張り争いや裏切りといった部分も描かれた。「ヤマト」にもその辺りは描かれてはいたが、「ガンダム」ではそれに政局(特に敵側)をも交え、さらに主役達はそのようなものとも戦うという構図として描かれた。

 こうして確固たる世界観が確立した「ガンダム」は現在まで語り継がれる伝説的なアニメになるほど成功した。とは言え、「宇宙戦艦ヤマト」と同じようにテレビアニメ本放送時は人気面で苦戦していたという。当初52話を予定していたテレビアニメも43話に短縮されるという憂き目も見たが、不人気の内容は視聴率の低迷ではなくスポンサーが販売している玩具の販売不振という点にあったという。これは視聴者層が玩具メーカーが想定していた低年齢層ではなく、小学生高学年以上の層にシフトした事の現れだったとも言われている。放映中には中高生以上向けのアニメ雑誌が熱心に取り上げたこともあって、放送終了後に日本各地で熱心な再放送嘆願運動が起きたという。その声を受けての再放送、再々放送で圧倒的な支持を得てガンダムブームが盛り上がり、ついには松竹系での映画化という展開になった。劇場版上映がガンダムブームの絶頂となり、多くの少年たちが映画館に行列して鑑賞したことは多くの人々の記憶に残るところだろう。
 1979年から1980年頃のSFアニメを見てみると、ちょうど「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」を中心にした松本零士の世界観によるSFアニメブームが起きていた頃である。だがそれと同時に多くの人々がこれらに変わる新鮮なSFアニメを欲していたのも事実だろう。「999」では松本零士の他作品をも絡めた世界観を作り上げることに成功するが、劇場版の上映で物語の結末を先回りして見せてしまったことや、設定自体がキャラが少ないなど拡張の余地がなかったこともあって、すぐに物語の展開に限界が出来てしまう。劇場版の続編「さよなら銀河鉄道999」ではその制約の中で素晴らしい作品を作り上げたのは確かだが物語を広げる事には寄与できず、この作品はタイトル通りそのままブームの終焉を告げる事になってしまった(だが最近になって「999」は、新たな敵勢力の設定やこれまで手を付けていなかった「銀河鉄道」という設定を生かして新しい作品が生まれていることを付け加えておく)。「宇宙戦艦ヤマト」については前述の通り。ガンダムブームの到来は時期的な事も考えると、これら松本零士もののSFアニメブームの終末と無関係ではないはずだ。
 また本放送終了後にこれまでの玩具に変わって販売されたプラモデルは、当時の少年たちに「ガンプラ」と命名されて爆発的な人気となった。映画館だけでなく、多くの若者たちが模型店の仕入れ日に店頭に並び、ガンプラを求めたものだ。ガンプラの存在は劇中に描かれなかった多くの裏設定を生み出し、これがこれまでのSFアニメと違って多くの別展開を生み出す原動力になる。テレビアニメシリーズ、劇場版アニメ、オリジナルビデオアニメというかたちで続編や裏の物語が描かれてきた。さらにガンプラの存在はガンダム世代に「模型いじり」の楽しさを教え、鉄道模型の世界でもこの世代までは自作や改造派のモデラーが多く存在する。
 そして魅力的な登場人物が吐く台詞は今でも語り継がれ、人によっては日常生活の中でつい口にしてしまうこともあるようだ。インターネットでもジョークとして、あるいは真剣な思い出話としてガンダムの話題は至る所で見ることが出来、当時影響を受けた世代が本当に幅広いことを思い知らされることが多い。当サイトでも取り上げるが、2009年夏に東京の台場でのイベントの一貫として実物大のガンダムが展示され、これに多くの人々が見物に来たということも報道された通りだ。

 当サイトではガンダムシリーズの初代である「機動戦士ガンダム」の劇場版を取り上げ、この世界を私なりの視点(つまりちょっとひねくれた視点)による研究考察や解釈、感想を綴っていきたいと思う。

・「ガンダム」と私
 「機動戦士ガンダム」テレビアニメ版の本放送は1979年〜1980年にかけてだが、私は本放送を見た記憶がない。本放送をやっていた頃はたぶん「ガンダム」を知らなかったと思う。いつしか兄が「ガンダム」に夢中になり、いわゆる「ガンプラ」を作るようになっていたのは劇場版上映直前の頃だから1980年秋から年末頃ではないかと思う。その頃に再放送を放映していたのも覚えているが、最初の頃は「ガンダム」を全く理解できず、私はブームから乗り遅れていたのは確かだ。そうこうしているうちに劇場版の「T」と「哀戦士編」の上映時期は過ぎてしまったのだと思われ、この2作品は劇場で見ていない。
 だが兄と一緒に「ガンダム」を見ているうちにいつしか私も夢中になってしまい、気付けば私も「シャア専用ゲルググ」のプラモを買っていた。兄とはガンプラを使って戦争ごっこをして遊ぶようになり、レゴブロックで宇宙空母を自作し、その中に先述の「ゲルググ」を入れて遊んでいた記憶がある(無論兄が連邦で私がジオンだ)。
 そして1982年春、私は兄とその同級生数名に連れられて朝一番のバスに乗って吉祥寺へ行き、混雑する映画館で何時間も待って「めぐりあい宇宙」編を見た。当時の私は小学5年から6年生になろうとしていた頃、兄は中学1年から2年になろうとしていた頃だったはず。帰りのバスで同じ映画を見ていた同級生と偶然一緒になり(映画館は凄い人で互いにいるのに気付かなかった)、色々と感想を語り合ったことは覚えている。
 私もガンダムに夢中になり、その物語や登場人物の台詞を忘れていなかった人間に一人であるが、数年後に放送されたガンダムの続編「Zガンダム」は見ていない、いや正確に言うと怖くて見れなかったのだ。兄はやはり夢中になってみていたようだが、私は「ヤマト3」以降のようにろくでもないのが出てきたら嫌だという恐れが先に立って見ることを躊躇った。そうしているうちにガンダムシリーズは「Z」「ZZ」とシリーズを重ねるが、完全に乗り遅れた私はそれら続編に追いつくタイミングを失っていた。また列車で遠くへ行くことに忙しくなったこともあり、ガンダムシリーズから私は離れて行くことになる。だが「Z」などは評判は悪くなく、初代の「機動戦士ガンダム」の世界観に忠実だと聞いてからはずっと興味がある。昨年(2008年)に映画化されたようだが、見に行く時間が取れないうちに終わってしまった。
 「機動戦士ガンダム」はその後も数回、テレビ放映された劇場版三部作を繰り返して見ることになった。そのたびにその物語が持つ世界観の広さや、独特の設定、それに魅力的な登場人物たちに感心させられることになった。大人になってからも友人たちとガンダムの話題が出ることが多く、あるときは「スレッガーはカコイイ」と盛り上がり、カラオケで誰かが「哀戦士」を歌えば「マチルダさーん」と盛り上がる、そんな記憶も一度や二度ではない。

・当サイトでの内容リスト(リンクのないものは準備中)
・作品考察本文
 主要登場人物紹介
 機動戦士ガンダムT
 機動戦士ガンダムU「哀戦士編」
 機動戦士ガンダムV「めぐりあい宇宙編」
 総評(新作)

・関連企画
 「あにめの記憶」特別企画 「実物大ガンダムを見に行った!」
 「石神井急行旅客鉄道」地球防衛事業部 地球連邦軍・ペガサス級強襲揚陸艦SCV-70「ホワイトベース」
 「石神井急行旅客鉄道」地球防衛事業部 地球連邦軍・白兵戦用試作モビルスーツRX-78-2「ガンダム」

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